2013年12月30日月曜日

シリル・エドアン「社会選択と選好の正当化」

Cyril Hédoin "Choix social et justification des préférences" (Rationalité Limitée 20 decembre 2013)



新経済思想研究所(INET: Institute for New Economic Thinking)のサイト上で、ラファエル・シャップによる社会選択理論についての素晴らしい小論が掲載されている。彼はアローがその不可能性定理を作り上げた分析枠組みについて、批判的な形で議論している。この小論の力点の一つは、社会選択論は社会選好を個々人の選好の機械的集計という方法によって作られたものに簡略する、「計算論的」あるいはアルゴリズム的なアプローチに依存しているというものだ。こうした点は、(合理的及び社会的)選択理論における選好の分析上の態様や、そうした選好を正当化しうる方法に関して疑惑の目で見る場合に非常に興味深いものだ。



小論において挙げられているソロモンの裁きの例から始めよう。ソロモン王は、一人の子供について母親であることを主張する二人の女について、その子供の「配分」を決めなければならない。もちろん、二人の女のうち本当の母親は一人だけだ。この決定の問題を解くために、王は次のような一貫した手続きを考える。すなわち、まず第一に子供を二つに分割する(訳注;したがって子供は死ぬ)という宣言をし、続いてそれによって子供を殺すよりは他の女に譲ることを望む本当の母親の反応を見るのである。こうすることによって、王は本当の母親を特定することが出来るだろう。情報の問題やそれによる戦略的側面(これについてはしばらく前に述べた [拙訳])については脇に置いておくこととする。

A:子供は本当の母親へ与えられる。
B:子供は偽の母親へ与えられる。
C:子供は二つに分割され、死ぬ。

本当の母親の選好(V)と偽の母親の選好(F)は次の通りだとする。

V:A>B>C
F:B>C>A

決断を行うために、王(上の選好を知っているものとする)は、3つの選択肢の社会順位を示す集計関数 g を定義することを試みる。王はケネス・アローを読了済みであり、g について以下の制約全てを加える。

a) g は合理的な社会選好とならなければならない。つまり、完備性と推移性を備える順位を作らなければならない。(合理性)

b) g はあらゆる個人選好について定義されうるものでなければならない。(普遍性)

c) g は選好全会一致制にそぐわなければならない。(パレート)

d) 二つの選択肢 x と y の g による順位づけは x と y についての個人選好のみに左右されるものでなければならない。(独立性)

e)g は主体のうち一人の個人選好によって完全に決められてはならない。(非独裁制)

双方の女はCよりもBを好むため、パレート基準ではCよりもBが社会的に好まれることが示される。その代わり、それ以外の選択肢の組み合わせであるA/B及びA/Cの間には全会一致は存在しない。これらについてはどのような可能性が考えられるだろうか。

  • 王がA>BかつA>Cと決定する場合、本当の母親が自分の個人選好を社会的レベル(彼女はあらゆる選択肢の組み合わせに対し決定的となる)まで押し付けることとなり、非独裁制の基準に反する。
  • 王がB>AかつC>Aと決定する場合、偽の母親が全ての選択肢の組み合わせに対し決定的となり、非独裁制の基準に反する。
  • 王がA>BかつC>Aと決定する場合、社会選好は非推移的となる。(厳密な選好の代わりに無差別性を導入するのと同義)
  • g に加えられたあらゆる制約を守るために、ソロモン王はB>AかつA>Cと決定しなければならない。社会選好の順位はしたがってB>A>Cとなる。

アローの提示した条件を満たす唯一の社会選好の順位は、したがって偽の母親に子供を与えるというものなのだ!ソロモン王が子供を本当の母親へ与えることを望むのならば、非独裁制の基準を破るか(A > B > C)、パレートの基準を破らなければならない(A > C > B)。

この例の示すところは、アローの示した条件の不適切性でもなく(A, B, C をそれぞれサッカーや、バスケット、テニスの試合に置き換えてみれば、結果は何ら問題も生じない。)、また社会選好を一つの純粋にアルゴリズム的な方法に落とし込むことは単純化かつ不適切である、ということでもない。ここで示される難点は、意思決定問題の構造からくるのではなく、王が社会選好を定義するための個人選好の中身なのである。本質的な点は、個人選好を上記の方法で集計する際、王は各主体の選好の中身に横たわるあらゆる倫理的な判断を用いることを自らに禁ずるということだ。アローの示す条件はしたがって、子供が本当の母親に渡る(選択肢A)よりも死ぬほう(選択肢C)を偽の母親が望むという事実を王が考慮し、それをAがBよりも社会的に望ましいと正当化する理由とすることを禁じる。それどころか、非独裁制基準の違反に加え、ソロモン王は独立性の基準にも反する(AとBの間の社会選好がAとCの間の個人選好に左右されるため)。

問題となるのは、これが直感や一般的感覚に反するという事実だけではない。というのも偽の母親の選好それ自身、非独裁制の基準と独立性の基準を破ることを正当化するのに十分な理由であると考えられるからだ。加えて、上記の例は選好の概念の分析上の態様に関する問題を明らかにする。ノージックやブキャナンらは、当初から「社会選好」という観念さえ批判していた。一つのグループないし共同体に選好があるとするのは全く無意味だと考えたからだ(そしてその延長として、そうした選好に合理性の条件を加えるのにも全く意味はないと考えていた)。選好というものを精神状態や内在的な意思と考える場合、これは正しい。というのも、そうした場合、一人の個人だけが選好を持つということもありうるからだ。顕示された選好という観点から解釈する枠組みで、ある集団の選択は全て実際には一人の人間の選択(この例の場合においては社会選択は実際のところソロモンの選択であるように)であると考えられる限りにおいても、こうした異論は妥当するように思われる。それに対し、こうした批判に耐えうると思われる3番目の選好概念の解釈もある。すなわち、選好を諸々の理由全てから形成された総合的な判断と解釈することである。つまり、ボブがバカンスへ出かけるのに海よりも山を好むということは、海よりも山へ出かけることが「優れている(meilleur=better)」と正当化する理由は、反対の選好を正当化する理由よりも強いとボブが判断したこということになるのである。もう一つ言い換えるならば、ボブは海よりも山を選好させる判断基準へ、山よりも海を選好させる判断基準よりも大きな比重を与えたということである。

このように定式化することにより、選好という考えは容易に社会のレベルへ移し替えることが出来る。社会選好は、各個人選好から由来する総体的な判断なのである。各個人選好は社会選好を正当化する理由をもたらす。こうした定式化はしかしながら、限りなく自由主義的であることに注意してほしい。すなわち個人選好はもはや、個人選好を集団の選好へと変換する規則を計算論的な方法によって定義する関数へと統合されるインプットを提供するだけではない。選好の内容それ自身が、問題となる変換規則を定義する役目を果たすのである。これは、理由に基づいた総体的判断の観点に基づく選好の分析と完全に整合的だ。個々人の選好が全体として(かつ、各選択肢の組み合わせについての選好に限らず)、社会選好を正当化しうる理由を構成するのである。この観点からは、C>Aという偽の母親の選好が、選択肢Bよりも選択肢Aが社会的に好まれるという理由となると考えることが完全に正当となるのである。この決定に異議のある者は、社会選好の形成に適用された形式的な制約を引合いに出すだけでなく、焦点となっている理由についても異議を唱えなければならない。つまり、(個人的にせよ集団のものにせよ)合理性は選好の構造の形式的基準に留まらず、そうした選好の実体にも関わるものと言えるのである。

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