Cyril Hédoin "Le jugement de Salomon et l’économie comportementale" (Rationalité Limitée 20 decembre 2013)
ソロモンの裁判とその行動経済学への含意について、デイビッド・アンドルファトが非常に面白いエントリを書いている。争訟を解決するためにソロモン王が用いる手続き(子供の体を二つに切り裂いて、二人の女性で分け合うように提案すること)は、各プレーヤーをして自らの選好を明らかにするように誘導するための仕組みを浮彫にするものであり、したがってソロモンの裁判はゲーム理論にとって興味深い事例である。この場合において、本当の母親が子供の生存に与える価値はもう一人の女のそれよりも大きいとするならば、本当の母親がソロモン王の提案する解決策を拒否することで彼女が本当の母親であることが明らかになると予想できる。問題となるのは、アンドルファトが示しているように、この仕組みは各プレーヤーが戦略的・合理的でないときにしか使えないということである。というのも、各プレーヤーが完全に合理的であり、他プレーヤーが合理的であること及びゲームのルールは既知のものであると仮定すると、「偽の母親」は本当の母親の行動を予期することができ、それを模倣する。ソロモン王が用いる仕組みはしたがって失敗することになるのである。
この問題を解決するために、複数の別の仕組みが考え出された。その中でも最も洗練されたものの一つはこの論文で示されていおり、アンドルファトが次のようにまとめている。
「偽の母親」がヴィッキー・オークションで自分が負けると知っている限りにおいて、彼女はゲームの参加について「ノー」と答え、本当の母親は何物も支払うことなく自分の子供を取り戻すことができる。ここにおいて、この解決策は各プレーヤーが戦略的合理的であるという条件においてのみ浮上してくるものだ。これは現実的だろうか。違うかもしれない。しかしアンドルファトが強調するところは、各プレーヤーは合理的だと仮定する際、公的権力(王)は配分問題を解決するための制度的仕組みを考え出すことができるということだ。反対に、各個人が非合理的である場合にはどうなるだろうか。問題なのは、各主体が非合理的であると知ってしまうとそこから先に進むことができないということなのだ。各個人は x という形の行動は取らないと知ることは、各個人が y という形の行動をとると知ることを意味しない。公的権力の仕事はしたがって達成不可能となる。しかし、行動経済学の中の一派(タラー、シラー)は、各個人は「非合理的」であるということをもって、公的権力の介入を精緻に基礎づけている。先の講演においてロバート・シラーは、それどころかこの「非合理性」によっていくつかの予測、とくに金融危機の勃発についてのそれを行うことが出来るとさえ述べている。行動経済学のものはカエサルに返さなければならない(訳注;マタイ福音書のカエサルのものはカエサルに、神のものは神に返せのもじり。人々が非合理的に振る舞うのだから、行動経済学的な枠組みで考えるべしという意味と思われる。)。過去二十五年に渡り、行動経済学によって私たちは行動的バイアスについて段々と理解してきた。各個人が経済理論から見て「非合理的」であるということだけでなく、経済理論がこうした非合理性を具体化するということも知っているのだ(プロスペクト理論を特に参照)。ただ、二つの未解決の問題が残る。各個人はこうした行動バイアスを知った瞬間から、それを克服することは不可能なのだろうか(部分的には行動経済学のおかげで。これは理論の遂行性の問題だ。)。また、立法者や政策決定者は同様のバイアスを持たないのだろうか。
ソロモンの裁判とその行動経済学への含意について、デイビッド・アンドルファトが非常に面白いエントリを書いている。争訟を解決するためにソロモン王が用いる手続き(子供の体を二つに切り裂いて、二人の女性で分け合うように提案すること)は、各プレーヤーをして自らの選好を明らかにするように誘導するための仕組みを浮彫にするものであり、したがってソロモンの裁判はゲーム理論にとって興味深い事例である。この場合において、本当の母親が子供の生存に与える価値はもう一人の女のそれよりも大きいとするならば、本当の母親がソロモン王の提案する解決策を拒否することで彼女が本当の母親であることが明らかになると予想できる。問題となるのは、アンドルファトが示しているように、この仕組みは各プレーヤーが戦略的・合理的でないときにしか使えないということである。というのも、各プレーヤーが完全に合理的であり、他プレーヤーが合理的であること及びゲームのルールは既知のものであると仮定すると、「偽の母親」は本当の母親の行動を予期することができ、それを模倣する。ソロモン王が用いる仕組みはしたがって失敗することになるのである。
この問題を解決するために、複数の別の仕組みが考え出された。その中でも最も洗練されたものの一つはこの論文で示されていおり、アンドルファトが次のようにまとめている。
まず、ソロモンはヴィックリー・オークション(訳注;政府調達の入札のように、相手の公示価格を知らないまま行う入札方式)によって子供を配分することを女たちに伝える。次に、彼はそれぞれの女に対し、ヴィックリー・オークションへの参加料は残りの人生の半分を何らかの過酷な労働に強制従事することであると伝える。女たちはそこで、「イエス」あるいは「ノー」と書いた紙を入れた封筒を差し出すよう求められる(イエスは参加希望、ノーは不参加を示す)。二人の女がともに「イエス」を提出する場合には、ヴィックリー・オークションが行われる。一人の女だけが「イエス」を提出する場合には、子供はその女性にタダで与えられる(オークションは行われない)。どちらの女も「イエス」を提出しない場合には、子供は何らかの方法で処分される(おそらく王の使用人という形で)。
「偽の母親」がヴィッキー・オークションで自分が負けると知っている限りにおいて、彼女はゲームの参加について「ノー」と答え、本当の母親は何物も支払うことなく自分の子供を取り戻すことができる。ここにおいて、この解決策は各プレーヤーが戦略的合理的であるという条件においてのみ浮上してくるものだ。これは現実的だろうか。違うかもしれない。しかしアンドルファトが強調するところは、各プレーヤーは合理的だと仮定する際、公的権力(王)は配分問題を解決するための制度的仕組みを考え出すことができるということだ。反対に、各個人が非合理的である場合にはどうなるだろうか。問題なのは、各主体が非合理的であると知ってしまうとそこから先に進むことができないということなのだ。各個人は x という形の行動は取らないと知ることは、各個人が y という形の行動をとると知ることを意味しない。公的権力の仕事はしたがって達成不可能となる。しかし、行動経済学の中の一派(タラー、シラー)は、各個人は「非合理的」であるということをもって、公的権力の介入を精緻に基礎づけている。先の講演においてロバート・シラーは、それどころかこの「非合理性」によっていくつかの予測、とくに金融危機の勃発についてのそれを行うことが出来るとさえ述べている。行動経済学のものはカエサルに返さなければならない(訳注;マタイ福音書のカエサルのものはカエサルに、神のものは神に返せのもじり。人々が非合理的に振る舞うのだから、行動経済学的な枠組みで考えるべしという意味と思われる。)。過去二十五年に渡り、行動経済学によって私たちは行動的バイアスについて段々と理解してきた。各個人が経済理論から見て「非合理的」であるということだけでなく、経済理論がこうした非合理性を具体化するということも知っているのだ(プロスペクト理論を特に参照)。ただ、二つの未解決の問題が残る。各個人はこうした行動バイアスを知った瞬間から、それを克服することは不可能なのだろうか(部分的には行動経済学のおかげで。これは理論の遂行性の問題だ。)。また、立法者や政策決定者は同様のバイアスを持たないのだろうか。
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