Ryutaro Komiya "Les trois secrets de la réussite économique du Japon"(le monde diplomatique, décembre 1967)
ここ十年において工場、設備、住宅、道路やその他の公共サービスにおける粗投資は毎年国民総投資の3分の1近くにも達した。新規投資のこれほどまでに力強いペースは、経済のあらゆる部門において急速な生産能力の拡大をもたらしている。投資は短期の貯蓄を伴わなければならず、人々は節約と投資を行うために一般消費をかなりのペースで減らさねばならない。しかし簡単な算術的分析をすればこうした犠牲はすぐにかなり大部分が所得、そしてひいてはより長期の消費の急速な上昇によって相殺される。
- 投資の強力な成長
- 非農業部門の加速的拡大
- 海外技術の大規模輸入
日本が近年に経験した急速な成長の原因と結果は、なによりもまず経済学者の観点から考察しうるものである。その場合まず、戦後の経済成長において役割を担った3つの要因が指摘できる。すなわち、高水準の新規投資、非農業部門における雇用数成長率の高さ、そして海外からの新技術の大量導入によって可能となった技術進歩である。これらこそが、現代日本経済が海外や戦前のそれと比較して最も特異な点であるのかもしれない。
ここ十年において工場、設備、住宅、道路やその他の公共サービスにおける粗投資は毎年国民総投資の3分の1近くにも達した。新規投資のこれほどまでに力強いペースは、経済のあらゆる部門において急速な生産能力の拡大をもたらしている。投資は短期の貯蓄を伴わなければならず、人々は節約と投資を行うために一般消費をかなりのペースで減らさねばならない。しかし簡単な算術的分析をすればこうした犠牲はすぐにかなり大部分が所得、そしてひいてはより長期の消費の急速な上昇によって相殺される。
次に、1955年には総労働力の42%近くは農業に従事していたが、1966年において農家は人口の23%だけになっている。つまり私たちはより生産性の大きい工業都市地域への田舎からの労働力の大量移動の最中にいるのである。さらに、自分の村に残った農家さえも近隣の新しい工場でパートあるいはフルタイムとして働くことになるだろう。
最後に、第一義的には戦時中に孤立したおかげで、さらには特許や手法に対する支払いに必要な外貨が足りていなかったせいで、15年前の日本の工業技術はアメリカやヨーロッパの水準と比べて全般的にひどく後れをとっていた。徐々に外国為替の規制が撤廃されていくにつれ、1960年以降海外技術(ほとんどはアメリカ)の大量流入が起こった。年間300~500件もの特許(ないし手法)に関する新規契約のおかげで、日本産業へそうした新技術が毎年導入されることとなり、投資可能性が拡大することで産業の効率性が高まった。
有利な国際環境
工業的に立ち遅れているとある国が、資本準備を急速に蓄え、遊休労働力をより生産性の高い部門へ割り当て、全速力で現代技術を自国に導入する、つまりここ10年で日本が行ってきたことをできるのであれば、あとは国際環境が有利に働きさえすればその国家は急速に発展することが出来る。
戦後の復興及び発展の初期数年においては、日本の経済成長を妨げる決定的な問題とは国際収支であった。その当時において経済は、輸出で輸入を賄える限りにおいてしか発展することができなかった。しかしその後、日本の輸出は平均で年13.5%近くの速度(1956年から1966年まで)で上昇し、国際収支は長期における決定的な足枷ではなくなった。「輸出の悲観主義」は「国際収支の楽観主義」へと道を譲ったのである。日本がしっかりとした速度で生産能力を拡大して産業の効率性を高める限り、需要は非常に急速に拡大するとともに、豊かな世界の市場へ輸出(そしてその範囲は拡大し続ける)の販路を見出すことが可能となり、そしてそれと引き換えに必要な財を輸入することができるようになる。経済成長が輸出に依存するというのは正しいが、輸出もまた経済成長に依存しているのである。鍵となる要因は、国際条件によって生まれる変化に対しての経済の対応能力であることは明らかだ。
そうした条件の下、国際収支均衡には国内総需要の拡大速度を合理的な範囲で維持するということが必要となる。
日本の産業のほとんどにおいて、その輸出に打撃を与える差別は依然として心配の種であるものの、今日における国際取引の状況は30年代以降大きく変化してきたのであり、そしてそのことは日本の成長率が戦前と比べて今や大きく上昇していることを部分的に説明するものなのである。
社会の雰囲気の変化
上記の3つの要因はそれぞれ資本、労働、技術に掛かるものであるが、これらを急速な経済成長の「本当の理由」と見なすことはできない。なぜ人々がこれほどまでの速度で貯蓄・投資を始めたのか、そしてなぜ日本企業がここまで海外の産業技術を保有することに必死なのかについても知っておかなければならない。
この問いに答えるのは難しいが、これらは戦後の発展の礎となった敗戦による社会経済的変化であるように思える。農地改革、軍国主義の廃止、軍隊の消滅、戦前財閥(戦前の日本産業を牛耳っていた巨大な家族的トラスト)の解体、及びその他の民主化政策の全てが、勤勉かつ躍動的な要素に向かう新たな可能性を開いたのだ。
平和により、軍事支出の負担が軽減されただけでなく、国家と個人のあらゆる努力を経済的・文化的目標へと向けることが可能となった。公職と並ぶ、あるいはそれ以上にビジネスに関する職業は最も尊敬を集めるものとなった。さらに重要なことに、政治的影響力を持つ社会グル―プの中で急速な経済成長や社会計画にともなう変化によって被害を被るものがなかったために、彼らがそうしたことに反対することもなかった。
遥か以前から日本人は勤勉な労働者であり、学ぶことに貪欲であった。例えば1930年代に行われた調査では、その当時の農家は平均で朝5時(現在と比べるとかなり早い)に畑へ出かけており、季節によっては日に15時間働いていたことが示されている。また、子供の90%は1900年以前においても頻繁に初等学校へと通っていた。工業・商業高校を含めた高等教育の公共サービスは、既に戦後数年間のうちにヨーロッパのそれと比べても非常に進んだものとなっていた。
戦後日本の特徴でもう一つ重要なのは、海外どころか国内でもしばしば過小評価されているが、その平等的な社会構造である。実証研究によって、日本における所得配分や最も貧しい層の所得が全体に占める割合は、今日海外のほとんどの国と比べてより平等(しかし終戦直後の数年間はそうではない)であることが示されている。海外のビジネスマンは日本の賃金の低さにしばしば不平を漏らすが、賃金が低いといっても一人あたりの国民所得もまた同様に低い(フランスのそれと比較して依然として50%以上も低い)のであり、不公正な資本主義経済活動を行っているからではない。戦前から既にそうした傾向は高かったものの、社会階層間の移動は戦後ますます高まった。
したがってしっかりと客観視してみれば、戦後の発展は敗戦による失望と、より進んでいる国の水準に追いつくこうとする努力の後に到来した、日本人の経済的「覚醒」が引き起こした現象と見なすことができるのである。
将来の見通し
急速な経済成長と社会計画がもたらした変化は、この二つの分野において大きな困難ももたらした。すなわち、生活費用の急速な上昇(1961年以降、年間5~6%)、これまでにないほどの大都市への人口流入によって引き起こされた住宅の不足、交通渋滞の発生と交通事故の増加、当然ながら沸き起こる対立、そして文化、倫理感、政治の解体である。こうしたもののうちのいくつかは、多かれ少なかれ加速した経済成長の不可避的な結果である。結局のところ、日本では他国が数十年、あるいは1世紀かけて経験した経済・社会の一大変革が数年で起こっている最中なのである。それに慣れるとともにそこから生じる問題を解決するためには、当然ながらしばしの時間が必要となるだろう。
経済成長の今後の見通しはどうであろうか。本稿の冒頭に挙げた3つの要因のうち2つは、日本が他国の後塵を拝しているということに由来しており、このことはこの先段々と経済成長を弱めることになろう。まず、工業部門へと振り分けることの出来た農業部門の余剰労働力、これは比較的生産性の低い労働力であるけれども、枯渇しつつある。僻地にある村においては、若年層は既に都市へと出てしまっており、高齢者しか残っていない。次に、日本と他先進国との間の技術上の格差は段々と埋まっており、海外から来る先進技術の限界効果は過去よりも低い。日本の急速な成長率は本質的に海外への追い上げという点に起因しているため、これが無限に続くものでないことは疑いようがない。
ただしかし日本経済は依然としてかなりの非生産・未開発の部門を持っている。ヨーロッパの基準からすれば、日本はまだ貧困国なのである。とりわけ、工業資本を除くと、住宅、設備、道路、公共サービスといった実物資産の蓄積は未だ少ない。
国際環境が日本にとって有利な状態が続くという仮定の下で、日本の経済学者の大部分は今後5年ないし10年に渡って成長率は高止まりすると予想している。年間約10%の成長率であった過去10年と比べれば低いものの、平均して約6~8%は保たれるであろう。
一旦始まってしまえば、経済成長は一般的に簡単には止まることはないように思える。国民総生産からすると比較的高い投資率躍動的かつや、競争へ立ち向かう毅然とした日本のビジネスマンの姿勢は、加速的な成長の原動力の要因であり続けることだろう。
日本の経験からの教訓
日本は欧米以外で工業化に成功した初の国である。このことは、経済的に立ち遅れている国の発展に頭を悩ませるものが関心を寄せる理由となっている。この点について、しばしば2つの間違いがなされる。一つは、工業化の行程において日本はだんだんと西欧化あるいはアメリカ化していっただけと考えてはいけないということだ。確かに、西欧化の表面的な兆候はあるが、日本における人間関係の考え方や思考様式、文化的姿勢はヨーロッパ各国のそれとは依然として大きく異なっている。日本人は依然として非常に日本的であり、それは大体において今後も続くだろう。日本人の行動様式や姿勢はゆっくりとしか変化しない。もう一点は、世界を西欧と非西欧という分け方でしばしば考えてしまうということである。しかしながら、このことをもって非西欧諸国が多かれ少なかれ似通っているという意味にとってはいけない。
ヨーロッパの国々がそれぞれ全く異なっているのと同様に、東アジアを構成する国々、ビルマ、中国、インド、インドネシア、日本、フィリピン等々でさえ、互いに全く異なっている。辿るべき道は国によって異なるのであり、日本の経験からの教訓は一般的にヨーロッパの経験から得られる教訓以上の固有の価値を持っているわけではない。
農業関係技術や小規模工場の組織、教育制度、公衆衛生、医療に関する限り、日本の経験はアジアにとってアメリカやヨーロッパのそれよりも有益となる可能性はあるが、発展途上国の経済成長に火をつけるにあたっては大きな期待を寄せてはならないのだ。
ただそれでも日本の経験は、特定の社会条件が重なるとともに国際環境が有利に動けば、非西欧諸国も経済成長の速度を加速させることができるということを証明している。したがって、国内及び国際的な条件は戦後の日本より(及び戦前の日本よりさえ)も悪いものの、私が思うに台湾や南北朝鮮、そしておそらくは大陸中国も加速的な経済成長の入口へと向かうように見える。現在の世界において、経済制度の本質(資本主義あるいは共産主義)が持つ自力での急速な工業化に対する重要性は、おそらく当該国自身の社会、文化、倫理、宗教やその他の特徴のそれよりも低い。そしてこの意味において、日本の経験から得るものが最も大きいのは先の四か国なのである。
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